泊城は、熊野街道の分岐点に近い城崎山に築かれ、足利義昭が湯川氏を頼って滞在した城。羽柴秀吉の紀州攻めを経て廃城となり、かつての曲輪や石垣も造成によって失われた。今は海に突き出す泊の鼻と城崎山の山容が、城の立地を伝える。このページでは泊城の歴史や見どころ、アクセス、周辺歴史スポット、撮影スポットを写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行
泊城の歴史・見どころ
泊城の歴史
泊城(とまりじょう)は、田辺市芳養町の城崎山と呼ばれる丘陵に築かれた中世山城。付近は熊野街道から中辺路街道と大辺路街道が分かれる交通の要衝にあたり、湯川氏が海辺の防御拠点として築いたとされる。
天文22年(1553)、畠山照就は山本忠智に命じて泊城を攻撃させた。同年には上坊山城も攻略されており、『日本城郭大系』では、当時の湯川氏が強力な勢力となりつつあったと考察している。
天正元年(1573)、織田信長によって京都を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭は、天正2年(1574)に紀伊国の興国寺に身を寄せたのち、湯川氏を頼って泊城に入ったという。義昭は紀伊の国人衆に決起を促したが、期待した動きは得られず、天正4年(1576)に備後国の鞆の浦へ移ったと伝わる。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、杉若越後守を将とする羽柴軍が泊城を攻撃し、湯川氏側は城を離れて退いたという。戦後、泊城には杉若越後守が入城した。天正18年(1590)、杉若長政が居城を上野山城へ移したことにより、泊城は廃城となった。
泊城の特徴と構造
泊城は、熊野街道の分岐点に近い城崎山の丘陵上に築かれた。海へ突き出す「泊の鼻」とともに、陸路と海辺を望む位置にあった。
主郭は丘陵の高所に位置し、その西側には二段の曲輪が設けられていた。『紀伊続風土記』には東西30間、南北47間の規模が記されているが、『日本城郭大系』では、この数値には西側の曲輪も含まれていたと考察している。
かつて主郭の入口には石垣があり、主郭より約1.5m低い位置にあった二の丸には土塁が残っていたという。三の丸の下方には広い平坦地も存在した。泊の鼻にも、小規模な平坦地が確認されていた。また、昭和26年(1951)頃には堀が残存し、安土桃山時代の巴瓦と平瓦が出土したと記録されている。
泊城の整備状況
昭和26年(1951)に城跡が開墾され、昭和46年(1971)にはブルドーザーによる大規模な造成が行われ、丘陵上部や段状の曲輪など主要な遺構が破壊された。現在、兵陵上を一本の道路が貫通しているが城郭遺構は確認できず、往時の面影を伝えるのは城崎山と泊の鼻の山容のみとなっている。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
泊城の撮影スポット・絶景ポイント
泊城の撮影スポット
泊城跡は丘陵の下をトンネルが通り、丘陵上にも道路が通っている。城郭遺構は確認できず、樹木に覆われて眺望も得られないため、撮影は城崎山と泊の鼻の山容のみとなる。おすすめは西側からの眺め。海や岩礁を取り入れることで、海辺に築かれた城の立地を印象的に捉えられる。
泊城周辺の観光スポット・史跡めぐり
興国寺(由良町)
泊城からは少し距離があるが、足利義昭ゆかりの地として訪ねたい古刹。織田信長によって京都を追われた義昭が、紀伊に滞在した際に身を寄せ、のちに泊城へ移ったと伝わる。天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは堂塔の大半を失ったが、その後、紀州藩主となった浅野家・徳川家の庇護を受けて復興された。
泊城周辺グルメ・名物料理
檜屋の天狗しょうゆ(由良町)
足利義昭ゆかりの興国寺を訪ねるなら、あわせて立ち寄りたいのが門前近くの「檜屋」。興国寺は醤油発祥の地のひとつと伝わり、宋から帰国した法燈国師が伝えた金山寺味噌の製法が、醤油の起源につながったという。檜屋では、興国寺の天狗伝説にちなんで名付けられた「天狗しょうゆ」を販売している。城めぐりの旅のお土産にもおすすめ。
泊城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:和歌山県田辺市芳養町 [地図を見る]
県別一覧:[和歌山県の城]
電話:0739-26-9943(田辺市文化振興課 文化財係)
アクセス
鉄道利用
JR紀勢本線(きのくに線)「芳養駅」下車、西へ徒歩約14分(1km)。石碑や案内板は無い。
マイカー利用
阪和自動車道「南紀田辺IC」から約3分(2.6km)。駐車場無し。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
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