松前城の歴史・見どころ

松前城の歴史

松前城(まさきじょう)の築城年代は明らかではない。史料上では南北朝時代の建武3年(1336)、南朝方の合田弥四郎貞遠が籠城していたことが確認できる。この年、松前城は北朝方の河野通治に属する祝彦三郎安親の攻撃を受けて落城し、合田弥四郎は由並城へ敗走した。

その後、応安元年(1368)には北朝方の宍草入道出羽守が守っていたが、河野通直の攻撃によって落城し、河野氏の支配下に入った。以後は河野氏の将である栗上通宗・宗閑らの居城となったが、天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景の軍勢を前に開城した。

松前町によれば、天正16年(1588)には粟野木工頭秀用が城主となったが、のちに豊臣秀次事件に連座して除封された。文禄4年(1595)、朝鮮出兵の戦功によって加藤嘉明が淡路国志智城から6万余石で入城する。嘉明は松前城を大規模に改修するとともに港を整備し、足立重信らに命じて伊予川の改修を進めた。伊予川がのちに重信川と呼ばれるようになったのは、この工事にちなむ。

慶長2年(1597)、嘉明は松前城を本拠として朝鮮へ出兵した。さらに慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として出陣したが、その留守を狙って毛利方の軍勢や河野氏旧臣らが伊予へ侵攻した。松前城では嘉明の弟・加藤忠明や佃十成らが守備にあたり、三津城、荏原城、如来寺などを舞台に戦闘が続いた。やがて関ヶ原で東軍が勝利したことを受け、毛利方の軍勢は撤退した。

関ヶ原の戦功によって20万石となった嘉明は、新たな本拠として松山城の築城に着手する。慶長8年(1603)には松山城へ移り、松前城は廃城となった。『日本城郭大系』によれば、松前城の石垣などは松山城築城に際して運ばれたと伝わる。天保年間(1830〜1844)以降には二の丸が耕地化され、明治42年(1909)の耕地整理によって城跡の様相は大きく変化した。

松前城の特徴と構造

松前城は、松山平野を東から西へ流れる重信川河口近く、左岸の三角州に築かれた標高約4mの平城で、海に近い立地から海城としての性格も備えていた。重信川が運んだ土砂と伊予灘の波浪によって形成された砂丘を利用して築かれ、西には伊予灘が広がる。東には松山平野、南には行道山を中心とする山並みが延び、海岸部と平野部の双方に接する位置を占めていた。

加藤嘉明在城時の規模について、『西海巡見志』では本丸が東西50間・南北65間、二の丸が東西49間・南北162間とされ、内堀と外堀を備えていた。外堀の西・北・東側には入江が設けられていたという。

「松前城古図」では、外堀と内堀の間に石垣が築かれ、外堀・石垣・内堀による三重の防御構造を確認できる。本丸・二の丸・三の丸の東側にも石垣が設けられていた。東側の外堀には舟留めがあり、外海へ通じていたことから、港と城郭が結びついた構造であったことがわかる。外堀には砂丘間に形成された低湿地が利用されており、自然地形を城郭の防御に取り込んでいた点も松前城の特徴となっている。

松前城の整備状況

松前城は廃城後、天保年間(1830〜1844)以降に二の丸が耕地化され、明治42年(1909)の耕地整理によって旧状を大きく失った。さらに大正11年(1922)、城跡を偲ばせていた「龍燈の松」が大風によって倒壊したため、大正14年(1925)10月に松前城跡記念碑が建立された。現在は城郭の建物や石垣、堀などを見ることはできず、城跡碑が往時を伝えている。松前城跡は昭和44年(1969)に松前町史跡に指定されている。石碑から南西に約400mの道路上に、松前城の大手門にあたる筒井門の礎石が残されている(筒井門は松山城に移築)。

参考文献:

  • 『日本城郭大系16 』(新人物往来社)
  • Webサイト「松前城跡」(松前町)

松前城の撮影スポット・絶景ポイント

城跡碑は西向きとなっている。

松前城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:愛媛県伊予郡松前町筒井1395 [地図を見る]

県別一覧:[愛媛県の城]

電話089-985-4135(松前町社会教育課)

アクセス

鉄道利用

伊予鉄道郡中線「松前駅」下車、北へ徒歩15分。

マイカー利用

四国横断自動車道、伊予ICより北へ10分(約7.1km)、駐車場無し。

地図