松坂城は天正16年(1588)、蒲生氏郷が南伊勢の本拠として築いた城。四五百森の独立丘陵に高石垣を巡らせ、その麓には新たな城下町が開かれた。氏郷は伊勢街道を城下へ引き入れ、商人の町として発展する松坂の基礎を築いた。このページでは松坂城の歴史や見どころ、アクセス、周辺歴史スポット、撮影スポットを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
松坂城の歴史・見どころ
松坂城の歴史
松坂城が築かれる以前、南伊勢の拠点は海岸に近い松ヶ島城に置かれていた。天正8年(1580)、北畠家を継いだ織田信雄は、田丸城の焼失を受けて松ヶ島城を築き、ここへ移った。本能寺の変後に信雄が清洲城へ移ると、松ヶ島城は家臣や羽柴秀吉方の勢力へと支配を移していった。天正12年(1584)には、近江日野城主の蒲生氏郷が南伊勢約12万石を領して松ヶ島城に入った。
氏郷は新たな拠点として、松ヶ島城から南へ約4km離れた四五百森(よいほのもり)の独立丘陵を選び、松坂城の築城を進めた。城は3年をかけて築かれ、天正16年(1588)に氏郷が入城した。本丸を中心に二ノ丸、きたい丸、隠居丸などを配し、高石垣を築いた城郭には三層の天守や敵見櫓、金の間櫓、月見櫓などが設けられた。
築城と並行して進められたのが城下町の整備だった。氏郷は松ヶ島から住民を移し、近江日野や伊勢大湊から商人を招いたほか、海岸近くを通っていた伊勢街道を松坂城下へ引き入れた。町中では商業の自由を保証し、職人町や魚町、大手通りなどを整備した。城と城下町を一体として築いたこの町づくりが、のちに商人の町として発展する松坂の基礎となった。
松坂城完成から間もない天正18年(1590)、氏郷は小田原合戦の功により黒川(会津)42万石へ移封された。翌天正19年(1591)には服部一忠が3万5千石で松坂城主となったが、文禄4年(1595)に豊臣秀次事件に連座して切腹し、改易された。同年、古田重勝が3万4千石で入封し、関ヶ原の戦い後には2万石を加増された。重勝が慶長11年(1606)に江戸で没すると、子の重恒が幼少だったため弟の重治が城主を継ぎ、元和5年(1619)に石見国の浜田城へ移った。
古田氏の転封後、松坂は紀州徳川家の領地に組み込まれ、以後は紀州藩の支配拠点として城代が置かれた。城郭建築については、正保元年(1644)の資料に天守が大風で倒壊し、土台だけが残ったことが記されている。寛政6年(1794)には二ノ丸に紀州御殿(徳川陣屋)が建てられ、紀州藩領下でも松坂城は地域支配の拠点として使われ続けた。
明治維新後、城内の建物は失われていく。二ノ丸の紀州御殿(徳川陣屋)は明治10年(1877)に失火で焼失し、表門、裏門、中門、土蔵なども明治14年(1881)頃までに取り壊された。現在は天守をはじめとする城郭建築は残っていないが、本丸や二ノ丸を中心に壮大な石垣が残り、蒲生氏郷が築いた城郭の姿を伝えている。
松坂城の特徴と構造
松坂城は、四五百森(よいほのもり)と呼ばれる標高38mの独立丘陵に築かれた平山城で、城域は約500m×600mに及ぶ。北を流れる阪内川を防御線とし、丘陵を切通しによって城郭中核部の北丘と、八幡宮を祀る南丘に分けている。北丘の最頂部に本丸を置き、東に二ノ丸、西にきたい丸、南に隠居丸を配し、両丘の周囲を三ノ丸が囲む。本丸を中心として曲輪が渦巻き状に巡る「渦郭式」の縄張りを特徴とする。
本丸は上下2段に分かれ、上段には三層の天守が築かれていた。天守に隣接して敵見櫓、対角の東角には2層の金の間櫓があり、それぞれを多聞でつないだ連立式天守の構えをとっていた。本丸下段には南に太鼓櫓、東に月見櫓、北に遠見櫓が置かれ、これらも多聞で連結されていた。
現在の松坂城を特徴づけるのが壮大な石垣だ。築城当初の野面積みが天守台や本丸周辺に残る一方、二ノ丸や隠居丸では江戸時代の修復による打込みハギ、二ノ丸の隅部では算木積みを見ることができる。石材には古墳時代の石棺の蓋も再利用され、天守台などに残っている。
虎口も松坂城の防御構造をよく伝える。表門跡や裏門跡では、高石垣に囲まれた空間の中で通路が二度折れ曲がり、枡形を形成している。特に裏門跡から本丸へ向かう経路には枡形が4度続く。本丸や二ノ丸の高石垣とともに、城内を歩くことで縄張りと防御の仕組みを具体的に確認できる。










松坂城の整備状況
松坂城跡は平成23年(2011)2月7日に国史跡に指定された。松阪市では平成24年(2012)3月に「史跡松坂城跡保存管理計画」、平成28年(2016)3月に「史跡松坂城整備基本計画」を策定し、史跡の保存と活用を進めている。
石垣については継続的な調査と保存修理が行われ、破損や変形が確認された石垣では動態観測調査を実施している。平成30年(2018)には15年ぶりとなる本格的な石垣修理が始まり、その後も必要な箇所で保存整備が進められている。
搦手側では令和4年(2022)から登城路整備が進められ、令和6年度(2024)に完了した。発掘調査の成果をもとに裏門跡や番所跡を表示し、解説板の設置、雨水排水施設の改修、登城路の舗装などが行われている。現在も松坂城跡では発掘調査が続けられており、令和7年度(2025)にも調査と現地説明会が実施された。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- 『松阪の城跡めぐり』パンフレット(松阪市)
- 「国指定史跡 松坂城跡」(松阪市)
- 『史跡松坂城跡保存管理計画』(松阪市)
- 『史跡松坂城整備基本計画』(松阪市教育委員会)
- 「松坂城跡 史跡整備に関する取組み(石垣修理の記録)」(松阪市)
- 「松坂城跡 史跡整備に関する取組み(登城路整備の記録)」(松阪市)
- 『令和5・6年度 松坂城跡整備の概要(登城路整備工事)』(松阪市産業文化部文化課)
- 「史跡松坂城跡発掘調査について」(松阪市文化財センター)
※「松阪」と「松坂」の表記について
松阪は明治22年(1889)の町制施行に際し、地名表記を「松坂」から「松阪」へ改めた。現在の市名や地名は「松阪」と表記されるが、城郭については史跡名称に従い「松坂城」と記す。
松坂城のおすすめ散策コース(順路)
松坂城への登城は、表門跡と裏門跡からの2ルートがある。まずは城の正面にあたる表門跡から登城し、二の丸、本丸へと進みたい。
下りは本丸南側から、折れを重ねた虎口をたどって裏門跡へ。連続する枡形を歩けば、松坂城が備えた堅固な守りを実感できる。裏門跡から城外へ出た後は、そのまま三の丸跡に残る御城番屋敷へ足を延ばしたい。さらに原田二郎旧宅では、庭に残る外堀跡を見ることができる。つぶさに櫓跡や石垣を見て歩けば、この時点で3〜4時間は経過しているだろう。
もし時間に余裕があれば、城の東側に残る商家「旧長谷川治郎兵衛家」「旧小津清左衛門家」も訪れたい。いずれも内部は広く見応えがあり、じっくり見学すると相応の時間を要する。松坂城と御城番屋敷、二つの商家まで巡るなら、松阪牛とともに一泊二日で城下町を楽しむのもおすすめだ。
松坂城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
松阪市立歴史民俗資料館
松坂城跡内にある資料館で、1階では松坂城と初代城主・蒲生氏郷に関する資料を展示している。建物は明治45年(1912)に飯南郡図書館として開館したもので、本館と倉庫は国の登録有形文化財。松坂城を歩いたあとに立ち寄れば、城跡と資料の両方からその歴史をたどることができる。
史跡松坂城跡発掘調査
松阪市文化財センターの「史跡松坂城跡発掘調査について」では、松坂城跡で実施された発掘調査の成果を公開している。各年度の調査内容や現地説明会資料などを閲覧でき、発掘で確認された遺構や出土品について詳しく知ることができる。現地を歩くだけでは分からない地下の遺構や、調査によって明らかになった松坂城の姿を知りたい人におすすめしたい。
松坂城の撮影スポット・絶景ポイント
松坂城で撮りたいのは、高石垣と折れを重ねる虎口空間だ。高石垣は、表門跡から仰ぎ見る本丸下段の石垣が圧巻。石垣の高さと量感を意識し、見上げる構図で捉えたい。
もうひとつの見どころが、裏門跡から中御門跡、本丸虎口へと続く城内動線だ。高い石垣に囲まれながら幾度も折れる様子を、一つひとつの門跡ではなく、連続する虎口空間として写したい。
さらに、石垣好きなら二の丸隅櫓跡にも注目したい。裏門跡からすぐの場所にあり、四隅のうち三つの石垣天端にチキリ(契り)跡を見ることができる。松坂城の石垣をじっくり観察するなら、こうした細部も見逃したくない。
松坂城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、松坂城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
松坂城周辺の観光スポット・史跡めぐり
御城番屋敷
松坂城裏門跡を出ると、石畳の両側に槇垣を巡らせた長屋型の武家屋敷が整然と並ぶ。ここはかつての三ノ丸で、「御城番屋敷」は松坂城を警護した松坂御城番の武士とその家族が暮らした組屋敷だ。


御城番武士の祖は、徳川家康に仕えて遠江の横須賀城を守った「横須賀組」にさかのぼる。のちに紀州徳川家に仕え、田辺城主安藤家を助勢する役目を担う藩主直属の家臣として「田辺与力」と呼ばれた。一時は藩を離れたものの紀州藩への復帰を願い続け、文久3年(1863)に松坂御城番として帰藩が叶い、その住居として御城番屋敷が建てられた。
創建時は石畳を挟んで東棟10戸、西棟10戸、合わせて20戸が並んでいた。明治35年(1902)、三重県立工業学校の創設に際して西棟北端の2戸が仮教室として使用され、その後1戸分が切り詰められたため、現在は東棟10戸、西棟9戸が残る。一般公開されているのは現在の西棟北端の1戸だが、創建時にはそのさらに北側にもう1戸が続いていた。公開部分は松阪市が借り受け、当初の姿に復原整備したものだ。
明治維新後には旧御城番武士らが「苗秀社」を組織し、屋敷を受け継いだ。苗秀社はその後、合資会社を経て現在の合同会社苗秀社となり、御城番屋敷を所有・維持管理している。長屋には今も御城番武士の子孫が暮らしており、空き部屋は賃貸住宅としても活用されている。幕末に建てられた武家屋敷が、現在まで実際の生活の場として受け継がれている点も大きな特徴となっている。
御城番屋敷は、現存する江戸時代の武家長屋として最大規模を誇る貴重な建造物で、平成16年(2004)に国の重要文化財に指定されている。
原田二郎旧宅
松坂城下の同心町に残る武家屋敷。主屋は田の字型に4室を配し、明治期には書斎として2階部分が増築された。庭には松坂城の外堀跡が残り、城下町と城郭とのつながりを現地で確かめられるのも見どころだ。
旧長谷川治郎兵衛家
松坂城下に残る豪商・長谷川家の旧宅。長谷川家は江戸へ進出し、木綿商として栄えた松阪商人を代表する家のひとつで、広大な屋敷から往時の繁栄をうかがうことができる。土間に残る、煉瓦を円形に積み上げた煙突も目を引く。
旧小津清左衛門家
松坂城下に残る豪商・小津家の旧宅。小津家は江戸へ進出し、紙や木綿を商って財を築いた松阪商人のひとつで、旧宅には商家の暮らしを伝える空間が残されている。松坂城とあわせて巡れば、城を中心に武家と商人の町が広がっていた城下町の姿をたどることができる。
飯野高宮神山神社の残石
城下町から少し離れるが、石垣や石材加工の痕跡に興味がある人には、もう一か所紹介しておきたい場所がある。飯野高宮神山神社の境内には、矢穴の残る石が複数置かれている。手水鉢に転用された石をはじめ、参道脇や境内には矢穴列を確認できる石があり、景石や境石として使われているものも見られる。

現地でこれらの石を見た際、松坂城の築城に関係する残石ではないかとも考え、松阪市文化課に確認した。しかし、松坂城の石丁場そのものが明らかになっておらず、文献にも飯野高宮神山神社の石と松坂城を結びつける記録は確認されていないという。また、松坂城の石垣には丸みを帯びた石材が多いことから、石丁場から切り出した石材とは考えにくいとの見解だった。
神社側でも石の由来は分かっておらず、背後の山が石丁場だったとする根拠も確認できなかった。したがって、ここに残る矢穴石を松坂城の関連遺構として紹介することはできない。ただ、矢穴や石材加工の痕跡そのものを観察できる場所としては興味深く、石垣好きなら少し足を延ばしてみてもよいだろう。
ちなみにこの神社には、境内を鉄道が横切る踏切がある。こちらは鉄道ファンの間でも知られているという。
松坂城周辺グルメ・名物料理
松阪牛を手軽に味わうなら「松崎屋食堂」
松阪まで来たのだから、松阪牛(まつさかうし)を食べたい。しかし名店を調べてみると、やはり相応の予算が必要になる。もう少し気軽に味わいたい人に紹介したいのが「松崎屋食堂」。松阪牛を定食で楽しめる昔ながらの食堂だ。
筆者が訪れた日にいただいた松阪牛は「なつみちゃん」。ご主人がそう教えてくれた。松阪牛は、黒毛和種の未経産雌牛で、生後12か月齢までに松阪牛生産区域へ導入され、その区域での肥育期間が最も長く、かつ最後の肥育地であることなど、定められた条件を満たした牛だけが名乗ることができる。一頭ごとに個体識別管理システムへ登録されており、名前を持つ「なつみちゃん」もその一頭だった。
松阪牛の王道なら「和田金」と「牛銀本店」
一方、せっかく松阪を訪れたのだから、予算をかけて松阪牛をじっくり味わいたい人には「和田金」と「牛銀本店」がある。筆者も実際に足を運んだが、町の食堂で味わう松阪牛とはまた異なる、老舗ならではの時間を楽しめる。
「和田金」は、松阪牛のすき焼きで知られる老舗。格式ある空間で、仲居さんが肉を一枚ずつ焼き上げるところから食事が始まる。料金は決して安くないが、料理だけでなく、その時間と空間を含めて松阪牛を味わう店と考えれば、一度は訪れてみたい。
「牛銀本店」は明治35年(1902)創業。こちらも松阪牛のすき焼きを代表する老舗で、歴史を感じさせる建物も印象に残る。城下町を歩いたあと、その町で長く暖簾を守ってきた店で松阪牛を味わうのも、松阪を旅する楽しみのひとつだ。
松阪牛をカツレツで「とんかつ野崎」
松阪牛といえば、すき焼きやステーキを思い浮かべるが、少し違った食べ方を楽しみたいなら「とんかつ野崎」へ。松阪牛を使った牛カツを味わうことができ、揚げ物にすることで、すき焼きとはまた違った松阪牛の魅力を楽しめる。王道の松阪牛をすでに味わったことがある人にも気になる一軒だ。
松坂城周辺ホテル・宿泊情報
割烹旅館 八千代
JR松阪駅周辺には手頃なビジネスホテルが点在するが、城下町らしい宿を選ぶなら、松坂城跡のほど近くにある「割烹旅館 八千代」も候補にしたい。大正4年(1915)創業の老舗で、玄関棟・大広間棟・鶴亀棟の3棟が国の登録有形文化財となっている。
八千代は創業当初、松坂城二ノ丸跡にあり、昭和4年(1929)頃に現在地へ移転した。最も古い鶴亀棟は、八千代以前にこの地にあった小津孝之助家の建物と考えられている。武家屋敷から住宅、割烹旅館へと受け継がれてきた建物に泊まれるのも、この宿ならではの魅力だ。
料理は、その日に仕入れた食材によって献立を決める「おまかせ」方式。伊勢海老や鮑など南勢の食材を使った会席のほか、松阪牛を味わえる会席も用意され、食事はすべて個室となっている。料金は決して安くないが、歴史ある建物に泊まり、土地の味を楽しむひとときも、松坂城と城下町を巡る旅の楽しみになる。
松坂城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県松阪市殿町 [地図を見る]
県別一覧:[三重県の城]
電話:0598-23-7771(松阪駅観光情報センター)
アクセス
鉄道利用
JR紀勢本線、または近鉄山田線、松阪駅下車、西へ徒歩約18分(1.2km)。
マイカー利用
東名阪自動車道、松阪ICから、東へ約10分(5.7km)、松坂城の北にある松阪市駐車場(無料)を利用する。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
松坂城:城ファンの知見と記録
松坂城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全5件)。







松坂城は非常にきれいな野面積みの石垣です。発掘調査の結果、天守閣を支える基礎部分に割石が敷き詰められていたことが解ったそうです。
記録:Haru 2021
松阪城跡の石碑は、実は要チェック。裏千家の千宗室氏自筆による書が刻まれている。秀吉によって自刃させられた千利休の弟子、蒲生氏郷が千家を保護し、その感謝として、刻まれた文字だ。
記録:いずみ 2014
平成の石垣大改修完成を記念した松阪城跡ガイドブック「松阪城再発掘 氏郷天正1588年の都市計画とその後」が発行されています。定価780円。カラーではないのですが、天守復元図や総構え発見された古写真、石に刻まれた文字などが載っています。
記録:加納 覚 2005
1584(天正12)年、蒲生氏郷は、松ヶ島の領主に任じられた。しかし、不便なため、四五百森に三層の天守閣を中心に金の間櫓等11棟の建物を建造。そして、吉祥の木「松」と秀吉の大坂(大阪)から「松坂」と名づけた。近江日野から商人を呼び寄せ楽市楽座をしいたが、2年で会津若松へ。その後、服部一忠、古田重勝・重治が領し、1619(元和5)年から明治維新まで紀州藩に統治、城代がおかれた。城の完成は、古田重勝時代だそうだ。
記録:加納 覚 1999
今は公園になっている。桜と藤が有名。
記録:加納 覚 1999