高取城の歴史・見どころ

高取城の歴史

高取城は、奈良盆地と吉野地方を隔てる山塊の高取山に築かれた山城。中世の創築については、元弘2年(1332)、護良親王の挙兵に応じた越智邦澄が築いたとする説が知られるが、確証はない。ただし、南朝方として活動した越智氏と吉野との結び付きから、高取山に砦が築かれていたと考えられている。

永享9年(1437)から翌年にかけて、越智維通が幕府軍に対抗して高取城に立て籠もったとの伝承があり、『興福寺旧記』には永正15年(1518)、高取城を越智氏が攻め取り、城主の子嶋掃部が没落したことが記されている。越智氏が常時拠点としていたのは貝吹山城だったが、戦国時代に入ると高取城も本格的な中世城郭へと改修された。天文元年(1532)には一向一揆に追われた興福寺僧徒や国衆が高取城に立て籠もり、一揆勢を撃退している。

天正8年(1580)、織田信長の命によって高取城はいったん破却された。しかし天正12年(1584)、筒井順慶が詰城として復興に着手する。同年に順慶が没すると筒井定次が跡を継いだが、天正13年(1585)に伊賀へ移封され、かわって豊臣秀長が大和へ入り、大和郡山城を居城とした。高取城には脇坂安治、続いて本多氏が入り、秀長のもとで天正17年(1589)から本格的な改修が進められた。この工事によって、中世以来の山城は壮大な石垣を備えた近世城郭へと姿を変えていった。

文禄4年(1595)に豊臣秀保が没した後も本多氏は高取城に残り、慶長5年(1600)には二万五千石に加増された。本多氏断絶後の寛永17年(1640)、植村家政が入封し、以後は植村氏の高取藩が幕末まで続いた。当初、藩主は山上の城内に居住したが、やがて山麓の下土佐に下屋敷が設けられ、家臣も次第に山を下り、土佐から子嶋にかけて武家屋敷が形成された。一方、山上の城郭はその後も補修が続けられ、近世を通じて維持された。

明治6年(1873)に廃城となり、天守や櫓などの建物は失われたが、山上には壮大な石垣群が残る。昭和28年(1953)には「高取城跡」として国史跡に指定された。

高取城の特徴と構造

高取城は標高583.6m、比高約390mの高取山に築かれた大規模な山城。二の門・壺阪口門・吉野口門より内側を「城内」と呼び、その周囲は約3km、山中に点在する諸郭を含めた「郭内」の周囲は約30kmに及ぶ。近世の山城としては異例の高さと規模を持ち、備中松山城、岩村城とともに日本三大山城の一つに数えられている。

城内は二の門から本丸へ向かって三の門、矢場門、松の門、宇陀門、千早門、大手門などの門が連続し、本丸を含め十一層に区分される。大手門から内側には二の丸と本丸が置かれ、壮大な石垣によって固められた。二の丸には藩主の屋敷があり、本丸は天守を置く内郭と、それを取り囲む外郭からなる二重の構成をとる。天守郭へ至る虎口も複数の門を屈折して通過する厳重な桝形となっていた。

大手門より外側には三の丸をはじめ、壺阪口郭、吉野口郭、古川屋敷、焔硝蔵などが広がり、さらに郭内には知所郭、岩屋郭、鉄砲矢倉、横風郭、八幡郭などが点在する。城内の諸郭は石垣で固められ、本丸・二の丸付近には特に整った石垣が残る。一方、八幡郭は壺阪寺との連絡路を確保する位置にあり、中世的な縄張りを残す。本丸北側には石積みで固めた大きな井戸があり、井戸郭などにも井戸を備える。二の門付近には土手で水を堰き止めた水堀が設けられており、高所に築かれた山城でありながら水堀を持つことも高取城の特徴となっている。

高取城の整備状況

高取城跡は昭和28年(1953)に国史跡に指定され、平成18年(2006)には日本城郭協会の「日本100名城」に選定された。現在は本丸・二の丸をはじめ、大手門跡、壺阪口門跡、二の門跡、国見櫓跡などを徒歩で巡ることができ、登山道・ハイキングコースが整備されている。七ツ井戸付近では本丸・二の丸を支える高石垣を間近から見上げることができるほか、国見櫓跡からは大和平野方面を望める。山上の城内には車両で進入できず、徒歩での見学が基本となる。城跡には建物の復元は行われておらず、石垣や郭、井戸、水堀などの遺構を通して近世山城の規模と構造をたどることができる。

参考文献:

  • 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
  • Webサイト「高取城」(奈良県)
  • Webサイト「高取町観光ガイド高取城」(高取町観光協会)

高取城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

高取城の天守模型

高取城の天守模型高取城の天守(と本丸の一部)模型が、夢創館2階にある。声をかけると見せてもらえるぞ。夢創館は、高取城の城下町(土佐街道)沿いにある商屋で観光案内所として機能している。

高取城址郭図と縄張図

観光パンフレット「日本一の山城 大和高取城」現地、城下町の夢創館などでハイキングマップや高取城址郭図、大和高取城パンフなどが手に入る。これらはWebでもPDF公開されているぞ。なお、高取城址郭図のほか、イラスト化された縄張図がありこれは『日本一の山城 大和高取城』パンフレットに掲載されている。2016年11月に新しく作られた城郭が把握できるパンフレットで橿原考古学研究所やアジア航測株式会社の高取城赤色立体図なども掲載されている。

高取城の撮影スポット・絶景ポイント

高取城の風情、山に残る遺跡

大和高取城の紅葉大和高取城は、山中に埋もれた城跡といった風情が登城中、随所に見られる。これらは木漏れ日が落ちる晴れの日よりも曇天の方が光りがよくまわって、遺構がよく撮れる。大和高取城は奈良県の紅葉の名所。11月には本丸や二の丸を中心に真っ赤に燃える様は圧巻の風景だ。チャンスがあれば是非、紅葉の時期に訪れてみてほしい。天守台などの石垣は西向きのため時間帯は午後が良い。

また、ここ30年ほどで本丸東側の石垣や国見櫓付近など地元の有志の手によって木々が伐採されより眺望が良くなっている。

高取城の写真(城写真ARCHIVE)

城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、高取城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。

高取城周辺の観光スポット・史跡めぐり

高取城下町と土佐街道

植村家長屋門鉄道アクセスなら壷阪山駅から徒歩で城下町を抜け、大手道を登ることになるから、自然と城下町を通ることになる。その道すがら、高取藩の御殿医だった石川医院の長屋門、高取城天守の模型がある夢創舘(旧山崎邸)、松ノ門(高取城移築城門)、武家屋敷田塩家長屋門、植村家長屋門と1本の道すじに並ぶ。余談ながら「土佐」という名称は、飛鳥時代に都造営のために人々が国(現在の高知)に帰ることができず、この地に住み着き、故郷の名を付けたことによる。そのほか、高取藩総門の続土塀、火薬櫓が砂防公園近くの民家に、移築城門が小嶋寺山門「二ノ門」、永明寺にある(いずれも詳しい場所は上記Googleマップ参照)。

あわせて巡りたい奈良の城

奈良県の城をあわせて巡るなら、規模の大きな城郭として大和郡山城、高取城、宇陀松山城を見ておきたい。また、戦国時代の大和の城郭をたどるなら、信貴山城、多聞山城、筒井城もあわせて巡ると、奈良の城郭史をより広くたどることができる。

高取城周辺グルメ・名物料理

「にしかわ」うどん屋。手打ちうどんで注文してから20分は最低でもかかるが、うまい。ここで是非食してもらいたい。109号線沿い、高市郡高取町下土佐(TEL:0744-52-4332)にある。

高取城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:奈良県高市郡高取町高取 [地図を見る]

県別一覧:[奈良県の城]

電話:0744-52-3334(高取町町役場)

  • 高取町観光ガイド(公式サイト)(高取町観光協会)

アクセス

鉄道利用

近鉄吉野線、壺阪山駅下車、城下町を通り徒歩約120分。壺阪山駅から土佐街道に入ると道はほぼ1本道。黒門跡から高取城の大手道となり山頂の城跡に至る。風情のある町並みを通るため、ゆっくり徒歩で山頂まで行くも良い。壺坂駅のとなり、飛鳥駅前にはレンタルサイクル有り。

マイカー利用

大阪方面からは、南阪奈道路終点から約35分(19.8km)、国号166号線、国号24号線、国号169号線利用。 名古屋方面からは、東名阪自動車道から名阪国道(国道25号線)利用。名阪国道から1時間40分(約94km)。 城下町に有料駐車場有り。高取城付近は七つ井戸側に3台程度駐車できるスペース有り。

地図