彦根城下町の構造

三重の堀で守られていた彦根城。このうち彦根山を取り巻くのが内堀である。その外側の二の丸には、槻(けやき)御殿や藩校、1000石以上の家老など重臣たちの屋敷が置かれた武家町が形成されていた。それを取り巻くのが中堀で、北東部は松原内湖に接していた。中堀の外側は「内町(うちまち)」と呼ばれ、1000石未満の中級の藩士や町人、魚屋町や桶屋町などいわゆる「職人町」があった(そのものズバリの職人町という町も含む)。

彦根城には総構えなど城下町を囲む城壁こそないが、当時は、城下町への人や物資の出入りは、城下町の区画ごとに設けられた出入口で監視されていた。外堀では切通口、油懸口、高宮口、池洲口、中薮口、長曽根口、松原口、そのさらに内側の重臣屋敷が広がる内曲輪と呼ばれるエリアは特に意識され厳しく出入りを監視されていたらしい。

外堀はマラリア感染防止など衛生面への配慮から、戦後すぐに埋め立てられた。2015(平成27)年に行われた発掘調査で、彦根市中央町で城内側の高さ5.5m、外側が6〜7m、長さ23mの土塁が発見された。ここは湖東唯一の銭湯として知られていた山の湯があり(現在は廃業)、庭園の築山として利用されていたものである。

外堀のさらに外には、足軽組の屋敷群が置かれていた。城下町の外側に足軽衆を集団で住まわせることで、いざというときは最前線として城の防御にあたる任も負っていた。足軽組は、慶長期に発足した善利(せり)組、中藪(なかやぶ)組をはじめ、鐘叩町(かねたたきまち)組、切通(きりとおし)組、大雲寺(だいうんじ)組、北組、中組などがあった。

ちなみに、善利川(当時・現在の芹川)は築城以前、松原内湖に流れ込んでいたが、これを城の南をとおり琵琶湖に直接注ぐように付け替えている。築城時の川幅は約22mで、洪水により後に約15m拡幅された。これらのことから彦根城は、城の南部に防御の力点を置いていること、つまりは大坂城や西国大名への備えの城だった側面が窺える。

彦根城下町の町並み

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彦根城下町に遺る長屋門

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参考文献:『新修彦根市史 第1巻』・『新修彦根市史 第2巻』(彦根市)

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