写真:岡 泰行

大津城の歴史と見どころ

大津(おおつ)の地は、その名が示す通り古くから港(津)があり、近江諸国からの水運を担う物資の荷揚場として、また、西の北国街道や東海道、東山道の分岐点として、軍事上、経済上ともに重要な位置にある。大津城は、大津の北約5kmにある明智光秀の坂本城の廃城後、豊臣政権の天正14年〜15年頃(1586〜86)に坂本城の遺材を転用し築城された。その規模は本丸に天守を有し、伊予丸、香集丸、奥二の丸、二の丸、三の丸と曲輪を配し、内掘、中堀、外堀と三重の堀で囲われていた。その縄張図は、『新修大津市史』第三巻で復元され大津市歴史博物館の展示で見られる。

城に加え、大津には坂本城下の住民が移住した。坂本町など坂本にちなむ町名が最近まであったらしい。天正15年(1587)浅野長吉(長政)が大津城の初代城主となり、増田長盛、新庄直頼など秀吉の重臣が入り、文禄4年(1595)には最後の城主となる京極高次が入る(京極高次の妻は浅井三姉妹の次女「お初」)。

慶長5年(1600)、関ヶ原の前哨戦ともいうべき、大津城籠城戦で京極高次が3千の兵で大津城を守り、これに毛利元康軍1万5千が囲み、長等山(大津市歴史博物館の背後の山)に大砲を据え城内に打ち込み激しい戦闘が行われた。最後に京極高次が本丸に立て籠もったが西軍と和睦、大津城は陥落した。この籠城戦で西軍1万5千を釘付けとしたことで、東軍は関ヶ原で勝利したと言われている。京極高次はこの功績により若狭一国を与えられ、若狭小浜8万5千石の大名となった。

関ヶ原の戦いで焼け野原となった城下町は地子免除として再び町民を呼び戻したが、大破した大津城はその後、遺材が膳所城彦根城の築城に利用され、城の役目を終え、大津は幕府直轄領となり代官所が置かれた。彦根城の天守は、ここ大津城の五層四重の天守を三重三階に縮小したかたちの移築であることが、昭和32年(1957)の解体修理で明らかになている。

江戸時代の大津と市街地に残る遺構

徳川家康は天下統一のため全国の街道を整備した。江戸時代の大津は幕府の直轄地となり代官所が置かれ、東海道五十三次の宿場町として、また港町として、三井寺の門前町として人工18,000人の都市へと発展した。この時、琵琶湖水運の船入堀として大津城の堀が利用されていた。そのひとつである川口堀跡は現在そのかたちがそのまま埋め立てられ公園となっており、近代のものと思われるが、かつてその堀にかかっていた石橋が長等公園に移築され残っている。
長等公園に移築された大津城川口堀にかかっていた石橋
長等公園に移築された、川口堀(舟入堀)にかかっていた石橋

市街地には、大津城の石碑が、本丸跡に建つ(びわ湖浜大津駅のすぐ東・ページ冒頭写真)。また、大津祭曳山展示館の奥に外堀石垣が一部残っている。大津という土地は、琵琶湖から京都方面に向かって東西に高低差がある。大津城の水堀もその京都側の外堀を水堀にするためには高石垣を築く必要があり、空堀だったとする説があるらしい。余談ながら、大津の町には曳山が伝わるが、この高低差を登るときはテンポの速い曲で曳山に勢いをつけている。
大津城の外堀石垣
大津城の外堀石垣(大津祭曳山展示館横の駐車場)。高低差は当時のものと推定されているが、石垣は矢穴痕も散見されるが、少なくとも写真奥の方は後世の積み直しとも言われている。

京都から大津に入る東海道「八丁通り」は、京都から山を越えて降りてくるメインストリートで、その風景は道の向こうに琵琶湖の広がりが見られたそうだ。両側には旅籠が立ち並び、最盛期では135件も軒を連ねたらしい。こういった大津中心街の賑わいは『大津百町』と言われた。町は湧き水を地中に通した上水道が整備されていた。

元禄4年(1691)、ドイツ人医師ケンペルは、大津の町について次のように触れている(ケンペルについては甘崎城でも触れた)。
「京都からの街道沿いにあり、近江国の第一の都市である大津は、ひじのように曲って通じる長い一筋の中央の道路と、いくつかの横町があって、約1000の小さい農家や庶民の家から成っている。しかし、それらの家々の間には立派な旅館が何軒かあり、浮気相手の婦人に事欠くことはない。この町は将軍の直轄地で、代官を置いて支配させている。町は淡水湖の岸辺にあり、固有の名がなく、ただ「大津の湖」と呼ばれている。」(『江戸参府旅行日記』(平凡社)より) 
客引きがあったのか、当時の町の賑やかさが伝わってくる。

参考文献:『日本城郭大系11』(新人物往来社)、大津百町館展示資料、大津市歴史博物館展示資料

大津市歴史博物館で理解を深める

大津市歴史博物館(京阪別所駅から徒歩数分)では、安土桃山時代から江戸時代、坂本城、大津城、膳所城について絵図や発掘調査の内容から理解を深めることができる。

『明智光秀と戦国時代の大津』大津城の関連資料は、天守推定断面図や、発掘で出土した大津城の石垣の位置、推定縄張図、大津代官所の絵図など。膳所城の関連資料は、膳所城図、膳所城の寛文2年(1622)の大地震による城郭変遷など絵図などから理解を深めることができる。坂本城の関連資料は、出土した鬼瓦や鯱瓦、湖中の石垣位置、江戸時代の坂本など坂本城に関する内容が見どころだ。また、大津市歴史博物館では『明智光秀と戦国時代の大津』や築城から幕末まで『膳所城と藩政』、『大津の城』などの図録がGETできる。

時代小説『塞王の楯』

時代小説『塞王の楯』『塞王の楯』(今村翔吾 著・集英社)は、戦国の石垣造りを生業とする穴太衆に身を置いた主人公と鉄砲を製造していた国友衆、「最強の楯」と「至高の矛」の対決に焦点を当てた時代小説。物語は越前一乗谷城の落城シーンから始まり、クライマックスはここ大津城の籠城戦が舞台。2022年第166回直木賞作品。

大津城の関連史跡

大津が解る町屋、大津百町館

大津百町館江戸期にあった建物をもとに明治32年に建て替えられている(築121年)。明治から昭和初期の生活様式を残している町屋だ。母屋や庭やはなれ、土蔵などが見学できる。井戸は現役なのだとか。表にはパネル資料展示がなされ、大津の歴史を知ることができる。開館は10時~17時。入場無料。外堀石垣のすぐ近くなので町屋を見学に寄ってみると思いのほか、奥に広がりを見せる町屋。

琵琶湖疎水の入口が大津にある

琵琶湖疎水琵琶湖疎水は延長約9kmの人工の水路で京都の蹴上へと流れている。明治45年(1912)に完成している。京都の南禅寺の水路閣や銀閣寺に至る哲学の道など疎水を身近に見ることができるが、これは蹴上から分岐する枝線水路。その元が大津にある。

三井寺

歴史博物館を訪ねられたら、その南の三井寺(園城寺)にも足を伸ばして下さい。有名寺院ですが、観光客誘致に熱心ではなく、それだけにあまり俗化していなくて、いい雰囲気です(辻本 1998.09.28)。

大津城のおすすめ旅グルメ

カフェ「楽」でカレー休憩を

カフェ「楽」大津の町を散策していると駅前を除き食事処が意外と無いことに気がつく。散策中なら3人の奥様方でされてるカフェがありコーヒーや紅茶がいただける。ここにきてミニサラダが付いた、インド風チキンカレーがなんと500円。営業10時〜16時、月曜定休。大津城外堀石垣と大津百町館を見た後は、その通りを西に進み電車通りを超えると左手にある。

大津城のアクセス・所在地

所在地

住所:滋賀県大津市浜大津5丁目2-29 [MAP] 県別一覧[滋賀県]

電話:077-522-3830(大津駅観光案内所)

鉄道利用

京阪石山阪本線、京阪京津線、浜大津駅下車、琵琶湖方面へ徒歩2分。大津港口交差点横に石碑がある。

マイカー利用

名神高速道路、大津ICから、北へ約12分(3.7km)。京阪の浜大津駅東側すぐの大津港駐車場を目指す。大津港口交差点横に石碑がある。

城ファンの気になるところ (7)

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    先週末大津に出張してきました。大津では時間がないため、朝早起きしジョギングがてら、三井寺を見学しました。早朝のため拝観料無料、払ってません。その代わりお賽銭たっぷりしました。観音堂からは大津城跡があったであろう大津市内が見晴らせおすすめです。あとは大津市内の湖岸が散策道として、よく整備され、散歩やジョグにおすすめです。

    ( 金子)

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    大津城は完全に市街地の下になってしまっています。かまど跡は発掘中に私も現認しましたが、いまは浜大津駅前のビルの下です。時折、その他にも市街地再開発に伴って遺構が見つかりますが、ほとんどが埋め戻しです。

    ( 辻本)

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    坂本城の遺構を移築したと伝えられる大津城は、近年、1996年に金箔瓦が出土し、聚楽第と同じ製法で作られていることがわかりました。また、1997年には、かまど4基や礎石なども出土しています。

    ( 光秀)

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    大津城坂本城瀬田城とともに「琵琶湖の浮城」と呼ばれているらしい。ちなみに日本三大湖城は、松江城膳所城高島城

    ( 光秀)

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    大津祭曳山展示館の脇に、大津城の外堀石垣とされる石垣があるが、どう見ても半分は積み直されている。

    ( 光秀)

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    1996年4月、大津城跡から金箔瓦が出土したそうで聚楽第と同じ製法技術変遷貴重な手掛かりになるのだとか。また、1997年には、かまど4基と厨房が出土したそうな。

    ( 匿名希望)

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    20年ほど前に訪れたきりだったのですが、その時は大津城の石碑のみを撮影して通りすぎるといった城跡扱いでしたが、先日、何か新しい発見があるかもしれないと大津を歩いてみようと久しぶりに大津城を訪れました。このあたりは、坂本城、膳所城、大津城と3城が近い位置にあって、いずれも琵琶湖を利用した水運の陸揚げ地的な位置付けだと思います。京阪石山線のびわ湖大津駅を降りて、東にすぐの大津城の石碑を見て後、 朝日生命保険相互会社大津ビルを目指します。この角地には復興の大津城石垣が古くからあります。そのまま南下すると、Googleマップに大津城 三の丸東南隅櫓跡とプロットされたところを通るのですが、櫓跡の痕跡はゼロ、石碑もありません。そこから少し商店街西進すると大津祭曳山展示館があり、その駐車場に大津城の外堀の段差があります。ここに石垣も見られるのですが、ちょうど車が2台停まっていて、見にくかったです。大津百町館もさらっと足を運び、ふとまたマップ上に大津城二の丸東南隅櫓跡というプロットを見つけます。しかしやはり何も確認できませんでした。ちょうど商店街からその場所へは坂道となっており、大津の立地が体感できます。次回は長柄山の展望台に登ってみたいと思います。

    ( かりんとう)

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