会津若松城(鶴ヶ城)600年の歴史と歴代城主

会津若松城(鶴ヶ城)は、会津盆地の五街道が集まる地に築かれた。会津盆地は南北約34km、東西約13kmの広さで、南東に東山温泉の上流を水源とする湯川があり、その扇状地にある小田垣の丘に鶴ヶ城を築き、城下町が形成された。現在見られる城とその城下町は、蒲生氏郷時代にその基礎が造られ、加藤嘉明・明成により現在の姿となった。

会津の戦国大名、葦名氏(1384年〜1589年)

鶴ヶ城の歴史は古く、至徳元年(1384)、源頼朝から会津を与えられた佐原義連(よしつら)の直系、葦名(あしな)直盛が黒川の地に東黒川館を置いたことが始まりとされる。16代、盛氏の頃には越後に出兵するなどその勢力を伸ばし、北条氏、武田氏と結ぶなど南奥羽で最大の勢力となった。この頃、館は黒川城と呼ばれ、名のある文化人も訪れていたらしい。

葦名氏は会津一円をほぼ支配下に収め、佐竹氏や伊達氏と戦ったが、内紛が起こり、それを見逃さなかった伊達政宗が、天正17年(1589)、会津に侵攻、葦名氏は敗れた。葦名氏は直盛から数えると14代で会津支配を終える(佐原義連から数えると20代、約400年)。

伊達正宗の支配はわずか1年余り(1589年〜1590年)

天正17年(1589)5月、会津は伊達正宗の領土となったが、さらなる領土拡大のため、会津の整備にあまり手をつけていないらしい。また、少し遡り同年1月、豊臣秀吉は伊達正宗に上洛を求めており、それを無視した会津侵攻に、秀吉の反感を買うことになる。その後、北条氏の征伐が行われることになり、正宗は小田原にいた秀吉のもとに参上、服従の意を示す。天正18年(1590)、会津城下の興徳寺にて行われた秀吉の奥州仕置により、正宗は岩手山城へ移され、会津の地は、織田信長の娘婿である蒲生氏郷へ与えらることとなる。

蒲生氏郷が会津若松の基礎を造る(1590年〜1595年)

会津五街道と呼ばれる街道がある。「白河街道」(秀吉も歩いたルート・蒲生時代の旧道あり)、「米沢街道」(伊達政宗ゆかりのルート・時代により変貌あり)、「下野街道」(伊達政宗も利用した伝承が大内宿に残る)、「二本松街道」(戦国時代、葦名氏と伊達氏がこの街道上で衝突)、「越後街道」のことで、これらの要路が会津若松に集まっている。この地に、蒲生氏郷は、総構えを持つ鶴ヶ城を築き、流通も支配した。

総構えは16の虎口が置かれ、その内側を郭内(武家屋敷)、外側を郭外(町人町)とした一大都市が生まれた。現在、総構えのラインこそ消えたが、この時の都市計画を基礎に会津若松は成り立っている。

氏郷時代の名残は、城の縄張り、天守台石垣とあるが、城下にも、総構えの虎口の石垣が一部と、総構えの土塁が一部残っている。蒲生時代は廊下橋のある城の東側が大手口だった。城の工事は、朝鮮の役の間に進められ、文禄2年(1593)には、七層の天守が建ち、城下町もほぼ完成する(天守は、当時、秀吉の大坂城で五層七階なので、政治・技術両面で地階を含む七層と考える方が良い)。このタイミングで「黒川」と呼ばれていた土地を、氏郷のふるさと(滋賀県の日野)の森の名をとって「若松」と改めたと言われている。氏郷は、それまで松阪12万石だったことを考えると、会津で一躍出世したといっていい。

また、会津漆器をはじめ、商業にも力を入れ、近江から味噌、醤油、酒造などを持ち込んだ。会津の形成に手腕を振るった氏郷だったが、文禄4年(1595)、肥前名護屋城で発病し、40歳でこの世を去る。墓は京都の大徳寺黄梅院にあり、遺髪が城下の興徳寺に葬られている。秀吉の奥州仕置も行われた興徳寺。氏郷辞世の句碑と五倫塔があるから、訪れておくと良いだろう。

上杉景勝(1598年〜1601年)

その後は、氏郷の子、秀行が13歳の若さで後を継ぐが宇都宮に転封し、慶長3年(1598)、上杉景勝が、120万石で会津に入封し豊臣政権の五大老となる(会津、仙道、米沢、佐渡を含めた大大名)。秀吉が没して後、景勝は家康と対立していくことになり、家康の会津攻めが起こるが、石田三成の挙兵で家康は反転、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いとなる。東軍の勝利に終わり、西軍に加担した上杉景勝は米沢30万石へと移封となり慶長6年(1601)会津の地を離れた。

再び蒲生家が会津に(1601年〜1627年)

会津には再び、蒲生秀行が60万石で入るが、死者3700人余りを出したといわれる会津地震の心労で、30歳で没することとなる。子の忠郷はわずか10歳、重臣間の抗争など家中は落ち着かなかったらしい。忠郷は疱瘡で26歳でこの世を去る。寛永4年(1627)、その弟の忠知は、伊予松山に転封、入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が入封した。

余談ながら、蒲生忠知は、伊予松山城で二ノ丸を完成させるなどしたが、寛永11年(1634)、在城7年目の参勤交代の途中に病没、嗣子が無く蒲生家は断絶することとなる。

加藤嘉明が現在の会津若松城を造る(1627年〜1643年)

加藤嘉明は、賤ヶ岳の合戦の七本槍の一人で城造りの名人といわれている。寛永4年(1627)に会津に43万石で入封し、会津藩の初代藩主となる。領内の整備を推進するが、寛永8年(1631)、病で江戸にて死去。享年69歳。嫡子の明成(あきなり)が後を継ぎ、寛永16年(1639)には、会津地震で傾いていた天守を五層の現在の姿に改修、北出丸、西出丸を増築し、北側を大手に変え現在の会津若松城の姿となる。同年、藩主加藤明成と家老の堀主水の間で対立が生まれ、会津騒動と呼ばれるお家騒動が起こる。堀主水が出奔、それを追討する事件となり、江戸幕府の介入を招き所領返上の事態へと発展、明成は会津の封土を取り上げられた。その後、会津には保科家が入封し会津藩は徳川親藩となる。

余談ながら、加藤家は会津を没収された後、子の明友が後を継ぎ、祖父の加藤嘉明の功績を評価され、石見吉永藩を立藩後、天和2年(1682年)近江水口にて2万石の領地を与えられた。

保科正之から続く徳川親藩、幕末まで(1643年〜1868年)

会津に入封した保科正之は、藩の方針を示した「家訓十五条」を定めた。幕末まで会津の精神を形成する柱となり、代々の藩主に徹底させた。後の「ならぬことはならぬ」で有名な「什の掟」や藩校である「日新館の心得」など会津藩士としての心構えが伝えられ、会津の武士道を育んだ。保科家は9代続き、明治を迎える(3代、正容(まさかた)から松平性に改姓)。

慶應4年(1868)、9代藩主、松平容保(かたもり)の代に戊申戦争が起こり、会津若松城は、薩長両藩を中心とする新政府軍に攻められ、白虎隊の悲劇などもあったが1ヶ月の籠城戦に耐えた後、大手門のある北出丸で白旗をあげて降伏する。籠城に耐え落城しなかったのは、城を堅固なものにした蒲生氏郷と加藤嘉明・明成親子の功績といっていい。

廃城から天守再建、石垣に負担をかけない造り

明治7年(1874)、会津若松城は廃城となるが、明治23年(1890)、旧藩士の遠藤敬止が城跡を入札、旧松平家に献納する。大正15年(1926)、旧松平家は若松市に寄贈した。昭和40年(1965)、天守は1億5千万円の費用をかけ鉄筋コンクリートで外観復元された。

現在の天守を支える鉄の柱は54mで、うち18mは、地中の岩盤まで通し、天守が天守台石垣に負担をかけない造りで設計されている。東日本大震災では震度5が長く続いたらしいが北出丸の一部の石垣が崩落したのみで、天守はほぼ影響を受けていない。

そのほか、平成2年(1990)に茶室麟閣を移築、平成12年(2000)に干飯櫓と南走り長屋の木造復元、平成23年(2011)に天守の赤瓦への葺き替え、平成30年(2018)年に廊下橋の架け替えが行われた。2018年現在は、本丸にあった御三階と呼ばれる高楼建築の復元計画が進行中だ(御三階は、七日町の阿弥陀寺に移築現存するが一旦解体の上、利用できる部材で改築されている)。

筆者もそうなのだが、50代以上の世代には、会津若松城といえば朱色の高欄で黒瓦の天守が印象に残る。平成23年(2011)に赤瓦への葺き替えが行われ、幕末の姿を取り戻したのだが、ほかにも以前と外観で異なる場所がある、天守最上階、廻縁の高欄の色だ。黒瓦の頃は朱色だったが、他藩の藩士の記録から黒色だったことが判明したため高欄が黒く塗り直されている。

会津を知る手がかりのひとつは「水」戸ノ口の用水

会津の知る手がかりのひとつに水がある。現在、会津若松の水は、猪苗代湖から引いている。その歴史は古く、元和9年(1623)に八田野村の内蔵之助が蒲生忠郷の許しを得て造られた「戸ノ口用水堰」がある。今も満々と水を湛え、会津若松城の水堀もそれを水源とし、生活用水として随所で使われた。会津若松城の南に流れる湯川は、水量が安定せず、用水を引くことで会津若松に安定した水源を確保したらしい。その後も天保年間に改修が行われるなど、重要視していたことが分かる。

白虎隊を偲んで飯盛山にいくと、六角三層の「さざえ堂(重要文化財)」という非常に珍しい建築物がある。そのすぐ近くに「戸の口堰洞穴」があり、これが猪苗代湖より通水した170mの洞穴の出口となるから見ておこう。天保6年(1835)松平容敬の時代に掘られたものだ。会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰り、飯盛山の洞窟を通って飯盛山の一角で自害したという話が伝わっている。

余談ながら、会津藩に大きな恩恵をもたらした水だが、現地の古老によると、新政府(明治政府)は、戊申戦争後も会津を警戒し、その水を一時期絶ったらしい。また、会津の繁栄させまいとして、当時、郡山宿のある村だったところに都市を造り(福島県郡山市)、会津の力をできるだけ削ごうとしたのだとか。水は飲用、農業、工業・水力発電と都市を発展させるキーとなる。ゆえに今では人口は郡山に抜かれ、会津若松は幕末の頃と人口が今も変わらないのだとか。関西から会津若松に行こうとすると、福島空港から会津若松行きのバスが直結しておらず郡山で乗り換えを余儀なくされること、その郡山に由来となる代表的な城が無いことに違和感があったが、そう聞くとふと納得する。

古老は最後に「正宗に負け、上杉は豊臣方なので関ヶ原で負け、結局、徳川一色になってしまったが、最後の最後にまた負けてしまった」と、にっこりとした顔で話してくれた。

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