大坂城の歴史

あなたは、大阪城にどんな印象を持っていますか?

昭和に建てた鉄筋コンクリートのお城。お城とは名ばかりの観光用博物館。なんだかニセモノっぽくてつまらなそう……。
そんな大阪城がなぜ府民に愛され続けるのか、写真でめぐりながらひも解いてみましょう。
きっと大阪城が好きになるはずです。

太閤秀吉の大坂城

羽柴秀吉銅像1583年、羽柴秀吉は大坂に城を築き始めました。これは織田信長が本能寺で自刃した翌年ですから、大坂城は秀吉がまさに絶頂期を向かえようとする時に建てられたお城です。五層に重ねた屋根には千鳥破風が並び、金箔で虎の飾りをほどこした黒漆喰の壁、軒に連なる金箔瓦。天守は度肝を抜かれるほど圧倒的な建築物だったはずです。1596年ごろに完成した、城下町ごと塀で囲む惣構の範囲まで含めると、当時世界最大の規模だったといわれています。

天守閣の唐獅子大坂城は『太閤さん』の城というイメージがありますが、太閤とは関白を退いた人のことで、秀吉は1585年に関白になると聚楽第に、1591年に太閤になると伏見城に移り、最期も伏見城で迎えていますから、在城期間は関白になる以前、実は豊臣姓を名乗る前のわずか1〜2年と思われます。

大坂城の始まり

石山本願寺推定地1496年、大坂に初めにお城を築いたのは、浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる蓮如です。そのころ浄土真宗には蓮如の功績で多くの門徒が集まり、一向宗として名高い結束集団に成長していました。

蓮如上人袈裟がけの松一揆を繰り返した一向宗は戦国大名と肩を並べるほどの力を持ち、大坂は寺内町として隆盛を誇っていました。当時の石山本願寺は堀、石垣、土塁、塀をめぐらせ、城そのものだったようです。蓮如の死からおよそ70年後の1570年、蓮如の曾孫にあたる顕如は、一向宗に圧迫を与えるようになっていた織田信長と交戦状態に入ります。それは11年におよぶ長い戦に発展しました。1580年、ついに信長との和睦に応じた顕如と一向宗徒はこの地を去りました。

主な建物が全焼したため石山本願寺が現在の大坂城のどの範囲かはわかっていませんが、本丸と内堀と極楽橋は当時からあったともいわれています。梅園の南に「蓮如上人袈裟がけの松」と伝えられる松の切り株があります。

豊臣大坂城、すべては土の下に

宝厳寺観音堂唐門・大坂城極楽橋・豊国廟極楽門・竹生島秀吉よりも大坂城に長く住んだのは遺児秀頼です。1598年5歳の時に父が亡くなったあと伏見城から移り、23歳で自害するまでずっとここに住んでいました。その間、2度しか城の外に出たことがなかったといわれています。ですから大坂城は『太閤さん』よりもむしろ秀頼の城ということができます。そのころ徳川家康が西の丸に小天守を建て、国の実質的な舵取りを始めます。秀頼や母淀殿の心中はいかばかりだったでしょう。写真は竹生島の宝厳寺観音堂唐門。大坂城極楽橋のものといわれ、淀の方が移築したと現地では言い伝えられている。

1600年、豊臣家の命運を託された石田三成が関ヶ原で敗れ、1603年、家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。国の中心ははるか東国へ移り、大坂は石高65万石の地方都市に、大坂城は豊臣秀頼という一大名の城になりました。それ以来、秀頼は幕府に臣下の礼を尽くすようたびたび求められます。

1614年、江戸から大坂に3つの要求が示されたといわれています。

大坂から国替えすること。淀殿を人質として江戸に送ること。秀頼が参勤すること。

豊臣秀頼淀殿ら自刃の地踏みにじられた誇りがはちきれんばかりに膨らんでいた秀頼と淀殿には、とうていのむことのできない求めでした。決戦を覚悟し籠城、15万とも20万ともいわれる幕府勢に「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二度にわたって攻め立てられ、1615年ついに豊臣政権は息の根を止められました。ここに、栄華を極めた豊臣家は滅亡し、比類なき大坂城は灰になりました。

天守の北の山里曲輪にひっそりとひとつの石碑が建っています。碑文は「豊臣秀頼 淀殿ら 自刃の地」。砲弾を浴びる天守を捨てここにあった籾を貯蔵するための櫓で自害したともいわれています。

大坂城外堀障子堀遺構現在、豊臣期の大坂城はすべて土の下に埋もれています。石垣の積み方や石の刻印などから、江戸幕府が堀や石垣に至るまで天下普請によって造り直したことは明らかです。2003年、大阪府警察本部庁舎立て替えにともなう発掘調査で、大坂冬の陣後に埋め立てられた外堀が姿を現しました。家康は三歳の子どもでも歩けるくらい平らに埋めてしまえと命じたそうですが、豊臣方が実戦に備えて固く強化したばかりだったため、地中で姿をそこなうことなく389年間眠っていました。見事な障子堀と斬新なトーチカ状の設備が研究者をうならせましたが、それも今は埋め戻されてしまいました。

もうひとつの大坂城

真田幸村銅像大坂冬の陣で、豊臣方の主立った武将たちは籠城を選びましたが、ただ一人真田幸村だけは打って出ることを主張し、城の南側に出城を築きました。圧倒的な兵力で全方向から包囲された豊臣方が冬の陣で倒れなかったのは、この真田丸での戦いの功績が大きいとされています。江戸時代にはその様子を描いた軍記物が好んで読まれ、幸村を一躍英雄に押し上げました。大坂にはせ参じたときの幸村は粗末な身なりで浪人とさげすまれたそうです。

真田丸の場所は、現在の明星高等学校がある一帯といわれています。付近には三光神社、心眼寺などゆかりの古刹や「空堀通り」という地名も残されています。

将軍の城

豊臣時代の石垣1959年(昭和34)、大坂城の大規模な発掘調査が行われました。その際に発見されたのが地下に埋もれている「謎の石垣」です。野面積みですから、今ある石垣よりも少し古い時代のものとわかります。実はそれまで大阪の人々は、大坂城の堀や石垣などの土台は『太閤さん』が造ったときのままと信じていました。

大坂夏の陣から4年後の1619年、大坂は幕府の直轄領になり翌年から城が再建されます。時の将軍徳川秀忠は堀と石垣を「旧城の二倍に」と言ったそうで、並々ならぬ対抗心がうかがえます。64大名家を動員した天下普請で、完成するのに10年以上の歳月を要しました。この時代の建物で現在見ることができるのは、乾櫓、千貫櫓、金藏、金明水井戸屋形、一番櫓、六番櫓です。

六番櫓当時は西の丸南面の高石垣には一番から七番までの櫓が建ち並んでいたそうですから、さぞや堂々とした姿だったでしょう。このほかに、その後建設された焔硝櫓、江戸中期の落雷によって消失し、江戸末期に豪商の寄付で再建された大手門、多聞櫓(続櫓渡櫓)、塀三棟、桜門が国の重要文化財の指定を受けています。

幕末には、幕府の直轄地ですから、大坂城の城主は将軍です。けれども秀忠以降15人の将軍のうち、大坂城に来たことがあるのは秀忠・家光・家茂・慶喜だけ。大坂城は城主不在の城でした。そしてもうひとつ大坂城になかったもの、それは天守です。1665年に落雷によって消失した天守は昭和3年まで再建されず、266年間大坂城は天守を持たない城でした。

天守復興

復興された天守閣1928年(昭和3)、当時の大阪市長が天守の復興を提案します。この案は大阪市民に歓迎されわずか半年で目標としていた150万円が集まりました。けれども実は、このお金の中から天守復興に使われたのは、三分の一にも満たない47万円です。残りは、このころ大坂城が置かれていた陸軍第四師団の司令部官舎建設とそのほかのことに使われたのでした。戦後この官舎は大阪府警察本部庁舎、大阪市立博物館などに2003年まで使用されていました。

復興に当たって、大阪の人々は城の土台を『太閤さん』が造ったものと信じ込んでいましたから、天守は迷わず豊臣時代のものを模しています。その結果、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守が乗る格好になってしまいました。破風飾りには太閤菊の紋が黄金色に輝いています。大坂城復興の熱狂もつかの間、大坂城は時代とともに不穏な空気に包まれていきました。

第二次世界大戦と大阪城

石垣に残る弾痕跡大阪冬の陣から江戸幕府による再建までの数年、大坂城の外堀が埋められていたのは先にふれた通りですが、実は第二次世界大戦中も東外堀が埋められ、その上に軍服などを作る被服工場がありました。そこに勤めていたという大阪城のガイドさんによると、空襲の日に亡くなった方の遺体を東外堀のそこかしこで見たそうです。大阪城も空襲でそれまで現存していた京橋口多聞櫓、二番櫓、三番櫓、伏見櫓、坤櫓などを失いました。天守背面の階段には今も砲弾の跡が残っています。大阪城は、石山合戦、大阪の役、第二次世界大戦の三度の戦火をあびたことになります。その度に、蘇り、生き延び、今私たちの目の前に立っています。今の三代目の天守は完成してから80年の時を刻みました。これまでの中で一番長く大阪の街を見つめています。

第二次世界大戦で失われた城

広島城第二次世界大戦の戦火に焼かれたお城は数多くあります。主なものは、岡山城広島城名古屋城和歌山城首里城など。日本のお城は中世、近世に築かれたので近代兵器に攻撃されるとひとたまりもありませんでした。特に原爆の熱にさらされた広島城は一瞬にして崩れたと言われています。戦で焼け落ちるのが城の宿命とはいえ残念なことです。

けれども、それらのお城の天守は戦後まもなくから次々と復興されました。日本人にとってお城がいかに大切かがよくわかります。

司馬遼太郎

大阪出身である、かの司馬遼太郎はこう書いています。

「有名な城のなかでは、やはり大坂城がすきである。いまの廓内は石垣のほとんどにいたるまで徳川初期の再建によるものだとおもうのだが、それでもわれわれがこの城のなかを歩いて感ずるのは秀吉立身の奇譚であり、豊臣氏の栄華とその没落という大ロマンである」

史実はどうでも、大阪城を『太閤さん』の城として愛する大阪の人たちの心をズバリと表現しています。
「露とおち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」
辞世の句が語るように、秀吉自身もまた大坂と大坂城を一番愛していたのかもしれません。

(文=倉本実紀 写真=岡 泰行)

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